長年、親しくさせて頂き、この渓流斎ブログにも数々の話題を提供してくださった満洲研究家の松岡將(まつおか・すすむ)氏が11月2日に亡くなられていたことを本日、知りました。行年89歳。ショックです。御遺族の方から喪中の葉書を頂きました。知らなかったので、今年は既に来年の年賀状をポストに投函してしまっておりました。
松岡將氏は1935年2月、北海道月形村生まれ。58年、東大経済部卒業後、農林省に入省し、東海農政局長などを歴任し86年退官。その後、ジェトロなど内外の国際機関に勤務した、という絵に描いたようなエリートコースを歩んだ方ではありますが、戦中の幼少期は満洲(現中国東北部)で過ごし、終戦間際のソ連軍侵攻により苦難を余儀なくされ、11歳で着の身着のまま辛うじて引き揚げたという体験の持ち主でした。父親の二十世氏も東京帝大卒のエリートで、北海タイムズ記者から北海道の労働争議の指導者として活動し、3・15事件で網走刑務所に下獄。その後、満洲に渡り、満洲国協和会総務部長で学生時代からの親友の菅原達郎の招きで、協和会中央本部調査部参事や甘粕正彦が理事長を務める満洲映画協会の嘱託などを務めていました。しかし、ソ連軍によってシベリアに抑留され47歳で病死します。松岡將氏は戦後、母子家庭で大変苦労して、苦学したこともあって、エリート臭がなく大変腰が低い方で、私のような年下の人間にも気を配って接してくれる人でした。
定年退職前から10年以上の歳月をかけて、父親の死亡証明書まで発掘する執念で書き上げた索引を入れて846ページにもなる大作「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社、2013年8月15日初版)が彼の代表作と言えるでしょう。
松岡家の御先祖さまは、仙台伊達藩の支藩である登米藩で祐筆を務める家柄だったそうです。
故人を偲ぶ追悼メッセージ
遺族の方が、故人を偲ぶ追悼ページをネット上に開設されたので、私もメッセージを投稿しました。それを以下に転載します。(ほんの一部加筆あり)
本日(2024年12月24日)、御遺族の松岡聡様、直美様の連名で喪中のお葉書を頂き、驚愕しました。松岡將氏が既に11月2日に亡くなられていたとは知りませんでした。
松岡氏とはこの夏頃までは頻繁にメールで連絡し合う「メル友」の仲でしたが、迂闊でした。既に安否伺いで(来年の)年賀状を出してしまいました。
松岡氏と知り合ったのは2006年頃で、目黒で不定期に開催された「満洲合作社事件」研究会の場でした。慶大の松村高夫教授、京大の江田憲治教授、小樽商大の荻野富士夫教授らが参加していました。目黒駅までの帰りがけ、松岡氏は「私の父は、ゾルゲ事件の尾崎秀実とは東京帝大と大学院で同級生だったんですよ」という話を聞いた時、吃驚仰天しました。丁度、当時の私はゾルゲ事件の研究会にも入っていたからです。
それからは話が弾み、個人的にも親密となり、恵比寿の御自宅には何度もお邪魔する仲になりました。松岡氏は、御自宅に何人かの友人を集めて、満洲のスライドショーを開催するようになったからです。卒論のテーマが「満洲」だったという私の親しかった元朝日新聞解説委員の隈元信一さん(故人)や時事通信社の先輩で満洲関連の本も出されている藤原作弥氏も参加しました。
その前に、松岡氏は70代後半にして、御尊父の足跡を辿った「松岡二十世とその時代」を出版されるや否や、毎年のように「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」「在満少国民望郷紀行」を上梓し、ワシントンの在米大使館勤務時代に撮り溜めていた写真を使った「ワシントン・ナショナル・ギャラリー参百景」などまで出されて、その度に驚かされました。私のブログ「渓流斎日乗」にも取り上げさせて頂きました。私の憧れの人でもありました。
銀座でご一緒に飲んだこともありますが、本当に「メル友」で、伝統ある日本工業倶楽部で講演されたとか、神田神保町に「書店」を出品された話なども事前に伺っていました。勿論、スーパーコンピューターの世界的権威になられた御子息の聡氏やソニーグループの重役になられた御令嬢の直美氏の事をいつも嬉しそうに話されていました。
数年前に奥様に先立たれて、生活面で大変苦労されたと思いますが、今では再会されているかもしれませんね。話が長くなりましたが、松岡將氏の訃報に接して驚くとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。長い間、本当にお世話になりました。
以上ですが、心にポッカリと穴の開いたような気分です。不思議な御縁でな知り合いましたが、とても律儀で几帳面な方で、優しい良い人でした。だから、今はとても寂しいです。
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