第63回諜報研究会「幕末期対外情報接受の諸相」

第63回諜報研究会「幕末期対外情報接受の諸相」 歴史
第63回諜報研究会「幕末期対外情報接受の諸相」

 12月14日(土)、忠臣蔵討ち入りの日、東京・早稲田大学で開催された第63回諜報研究会に参加して来ました。オンラインで30人ほど参加されたらしいのですが、会場に足を運んだのは、関係者を除くと4~5人。会場は100人ぐらいは入れる教室でしたので、「勿体ないなあ」と思いました。一応、どなたでも無料で受講できますからね。でも、遠方からだと交通費が掛かりますか。

 第63回諜報研究会の共通テーマは「幕末期対外情報接受の諸相」でした。お二人の専門家が登壇しましたが、大変失礼ながら非常にマニアックな話で、漫画やアニメやSNSとは違いますから、大衆の皆さまには受けません。だから、参加者が少ないのかと思いました。しかし、私自身は幕末史に関しては結構詳しいと僭称しているのに、知らない、初めて聴くことばかりでした。大いに勉強になりました。

「海防に向かう村役人たちの異国船情報ネットワーク」

第63回諜報研究会「海防に向かう村役人たちの異国船情報ネットワーク」
第63回諜報研究会「海防に向かう村役人たちの異国船情報ネットワーク」

 最初の報告者は、早稲田大学教育・総合科学学術院非常勤講師の清水詩織氏で、テーマは「海防に向かう村役人たちの異国船情報ネットワーク」でした。サブタイトルの通り、「岩槻藩房総分領和田村庄司家の事例」を中心にした話でした。清水氏は、日本近世史が専門で、2022年に早大で博士号を取得されたばかりの新進気鋭の学者です。多数の古文書の史料に当たり、報告も分かりやすく、将来期待の研究者でした。私は古文書が読めませんから、とても研究者にはなれないなあと思ってしまいました。あ、全く関係ない話で失礼致しました。

 不勉強のせいで知らないことばかりで、まず、「房総分領」なるものを知りませんでした。岩槻藩は現在のさいたま市岩槻区の海のない土地ですが、この岩槻以外に現在の千葉県房総半島に「分領」を持っていたというのです。「支藩」なら知っておりましたが、分領もあったんですね。岩槻藩は、宝暦6(1756)年、9代将軍家重の側近、大岡忠光が入封し、幕末まで大岡氏が藩主を務めますが、2万石のうち房総分領は9600石で、実に藩の石高の半分近く占めていたのです。房総分領は、九十九里浜の勝浦、前原、和田です。この辺りは、農業より漁業が主で、干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす=肥料になる)の産地だったそうです。

 それが、幕末になり、異国船がしばしば来航するようになると、海防のために情報収集が必要となります。その現場の最先端にいる房総分領の名主がその役割を担わされました。その代表例が和田村の庄司家です。岩槻藩士は房総分領に常駐しているわけではなく、こういった名主が「扶持人」と呼ばれ、苗字帯刀も許され、武士並みの学問と教養も身に着けていたといいます。和田村の庄司家は、房総半島の北条などに陣屋を持つ忍(おし)藩(埼玉県行田市)とも連携して情報交換していました。江戸湾海防担当藩だった忍藩は、彦根藩、川越藩、会津藩とも情報交換していましたが、その情報も岩槻藩に伝わっていたわけです。それだけではなく、岩槻藩は、徳川四天王の一人、本多忠勝が初代藩主を務めた大多喜藩(千葉県)などとも連携して情報ネットワークを構築していました。

ちなみに、忍藩の忍城は戦国時代、小田原北条氏の城で、石田三成の水責めでも落城しなかった城でした。江戸時代に入り、阿部忠秋ら多くの老中を輩出したことから「老中の藩」の異名を持つ親藩でした。

 その後、1853年のペリー来航により、大船建造禁止令が解禁されて、各雄藩が大型の「異国船」を作るようになると、船舶の「形」で識別していた異国船目撃情報の意味がなくなり、岩槻藩の情報収集活動の中心は、和田村の庄司家から江戸藩邸になっていったといいます。

「蕃書調所初代頭取・古賀謹一郎と新聞」

第63回諜報研究会「蕃書調所初代頭取・古賀謹一郎と新聞」
第63回諜報研究会「蕃書調所初代頭取・古賀謹一郎と新聞」

 続いて登壇した報告者は、オノーレ情報文化研究所所長の山口順子氏で、テーマは「蕃書調所初代頭取・古賀謹一郎と新聞」でした。

 蕃書調所(ばんしょしらべしょ)とは、幕末の安政2年(1855年)、外交文書や洋書の翻訳などのために設けられた研究教育機関で、洋学所として設立。初代頭取(校長)として、その前年に、老中阿部正弘に「洋学建白」などを提出していた古賀謹一郎が任命されました。その翌年の安政3年(1856年)に蕃書調所として開校し、その後、文久2年(1862年)に洋書調所、翌3年(1863年)に開成所と改称され、明治維新後、現在の東京大学と東京外国語大学の源流となります。

 古賀謹一郎は、もともと古賀家三代続く儒者で、祖父精里(せいり、1750~1817年)は佐賀藩藩儒から江戸の昌平坂学問所(昌平黌)に召され、林家と並ぶ二派を築き、寛政の三博士と称された人でした。父侗庵(とうあん、1788~1847年)も昌平黌の儒者で、「海防憶測」を著わして開国論を説いた人です。朱子学以外に諸子百家や陽明学などにも通じる博覧強記で、大槻玄沢や渡辺崋山ら蘭学者との親交もありました。

 謹一郎は三代目の昌平黌儒者ですが、昌平黌儒者は世襲制ではなく、三代も続くことは稀な事だったようです。彼は儒学者であったとはいえ、早くから洋学の必要性を訴え、日本初の洋学研究教育機関である蕃書調所を開校したことは先述した通りです。この学校に教授として、蘭学者として既に著名だった津山藩士の箕作阮甫を招き、教授見習として、長州藩(当時宇和島藩出仕)の村田蔵六(大山益次郎)や薩摩藩の松木弘庵(寺島宗則)、津和野藩の西周助(西周)、津山藩の津田真一郎(津田真道)らを採用しました。また、1853年、ロシアのプチャーチンが来航した際、勘定奉行の川路聖謨らとともに、長崎と下田での交渉に立ち合っています。

日本で最初の新聞「バタヒア新聞」

 1855年に洋学所が設立される以前から、香港で刊行された中国語の月刊誌「遐邇貫珍」(かにかんちん=1853~56年)や寧波の半月刊のち月刊「中外新報」(1854~61年)などは入手できましたが、ジャカルタのオランダ総督府機関誌「バタヒア新聞」は、数年間の翻訳編集を経て文久2年(1862年)に刊行され、これが日本で最初の新聞だと言われています。

 蕃書調所(洋書調所、開成所)は、英国の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」などの新聞だけではなく、百科辞書や地理、天文、医学、兵学書なども翻訳していました。

 山口氏の報告で大変興味深かった逸話は、蕃書調所は西洋の新聞の挿絵の視覚伝達力を重視し、画学局設置を目論んだことでした。翻訳された「海外新聞」の中には、米国の南北戦争報道記事(後の調査から米フランク・レズリー・イラストレテッド紙と判明)もあり、「その挿絵を模写した銃器が、後の戊辰戦争で幕府に向けられる銃口になろうとは誰も予想していなかったに違いない」と山口氏も話していました。明治維新後、画学出役筆頭の川上冬崖は陸軍で地図製作に携わり、画学局出身の高橋由一は西洋画の祖となったので、蕃書調所は今の東京芸術大学の源流でもあったと言えるかもしれません。これは勝手な自説なので専門家から怒られるでしょうが。

 私も不勉強でよく知らなかった蕃書調所の初代頭取だった古賀謹一郎は、元治元年(1864年)に種痘の副作用の影響か、3人の娘を一度に失う不幸に見舞われ、明治維新後は幕臣として新政府に仕えることを潔しとせず辞退し、寂しい晩年を送ったようです。明治17年(1884年)死去、行年68歳。東京の大塚先儒墓所に祖父精里、父侗庵らとともに埋葬されました。茲は、受付で記帳して鍵を借りれば、一般人でもお参り出来るそうです。

 【お断り】

 以上は、講演の速記録ではなく、感想文です。報告者の発表や資料にはないことも書かれています。お蔭で、執筆校正に5時間も掛かりました。

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