上野・東博の「はにわ」展に行きました

特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館) 歴史
特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)

 何故(なにゆえ)か、家でじっとしていられず、東京・上野の国立博物館で開催中の特別展「はにわ」を観に行って来ました(12月8日まで開催)。東京まで出掛けると結構、交通費が掛かりますね(笑)。これが地方に住む人のハンディと言いますか、宿命なのかもしれません。

 平日の午前中だというのに、会場は結構混んでいました。禁句ですが、暇人が多いんですねえ~。

 埴輪は3~6世紀の古墳時代の「副葬品」ですが、会場で実物に接すると、楽しくなってきました。勿論、「不謹慎」と自覚しつつです。埴輪とは、本来なら王や大豪族が亡くなったとき、その家来や家臣や奴隷たちが、殉死して王と一緒に葬られるところを、その身代わりとして、土で作った人物像などを埋葬したものだという説が有力だからです。

力士(大阪府高槻市の継体天皇陵と言われる今城塚古墳出土、6世紀、高槻市立今城塚古代歴史館蔵)=特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)
力士(大阪府高槻市の継体天皇陵と言われる今城塚古墳出土、6世紀、高槻市立今城塚古代歴史館蔵)=特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館) 古墳時代に力士がいたとは! ま、神話の時代から神事としてありましたからね。

ユーモアと可笑しみがある埴輪

 日本の埴輪は、中国の秦の始皇帝の兵馬俑(約2200年前)のように緻密で精密で技巧的ではないかもしれませんが、どこかユーモアがあって、可笑しみのあるものが多く作られたので、観ていて楽しくなってしまうのかもしれません。

挂甲の武人の5体勢揃いは圧巻

 今回、私が最も楽しみにしたのは、主に今の群馬県太田市の工房で製作されたとされる「挂甲の武人」の5体勢揃いでした。やはり、圧巻でした。東博所蔵のものは、「国宝」に指定され、群馬県相川考古館と奈良県天理大学付属天理参考館所蔵の挂甲の武人は、「重要文化財」に指定されています。残りの一つは、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館所蔵のもので、これだけは、群馬県太田市ではなく、群馬県伊勢崎市から出土したものでした。そして、もう一つは、何と1962年以来62年ぶりに米シアトル美術館所蔵の挂甲の武人がこの展覧会のために里帰りし、5体が勢揃いしたのです。これはねえ、見逃せませんよ。

特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)の会場風景
特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)の会場風景

 全部取り上げますとキリがないので、一つだけ、注目すれば、やはり、東博所蔵の国宝「挂甲の武人」でしょう。何故、これだけが、国宝に指定されたのか、考えたくもなります。

国宝「挂甲の武人」(群馬県太田市飯塚町出土、6世紀、東博蔵)=特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)
国宝「挂甲の武人」(群馬県太田市飯塚町出土、6世紀、東博蔵)=特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)

 5体を比べてみると、全員、やはり少しずつ表情が違っていて、兜の被り方も、深く被っていたりしているものあり、それぞれ違います。人間ですから、頭と身体とのバランスといいますか、プロポーションも違います。そうこうして観て行くと、やはり、東博所蔵の挂甲の武人の体型が一番均整が取れていて男前に見えます。国宝に選ばれるだけの「素質」があったわけです。

 我々、現代人は、埴輪といえば、「土色」だと思っていた人が大半ですが、実際に当時の挂甲の武人の鎧は、白色に灰色の縦縞が入っていたらしいですね。当時を再現した複製の埴輪も展示されていましたが、これを見て、驚くほかありませんでした。

国宝「挂甲の武人」の当時の姿を再現=特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)
国宝「挂甲の武人」の当時の姿を再現=特別展「はにわ」(上野・東京国立博物館)

 私が子どもの頃、「大魔神」(大映)という映画が大ヒットし、3部作まで作られましたが、この大魔神はこの埴輪を参考にして作られたという説を聞いたことがあります。でも、大魔神は鬼の形相で、鎧兜はそっくりですが、表情は、多聞天か増長天に近いです。

 本物の埴輪の挂甲の武人は、どういうわけか、表情が柔らかいですよね。この古墳時代、まだ仏教は伝来していないので、その影響はなく、埴輪は日本人の原型のようなスタイルと表情だったのかもしれません。

古墳時代はどんな時代か?

 扨て、埴輪は紀元250年から538年にかけての古墳時代の産物で、古墳が作られなくなるのと同時に、埴輪もなくなります。この古墳時代は今から1500年前ですが、まだまだ分からないことがいっぱいです。ただ、最近の研究では、この古墳時代に大量の大陸人が渡来してきて、弥生人と混血します。日本人のルーツは、縄文人と弥生人のDNAが半々かと私は思っていましたら、ゲノム解析によると、日本人は、古墳渡来人が50%、縄文人25%、弥生人25%だというのです。5~6世紀の中国は、北と南が分かれて対立する南北朝時代で、多くの内乱が起きたせいで、日本列島に逃れてきた大陸人が多かったからだと想像されます。

 また、古墳時代は歴史上稀に見る気温が低い時代で、冷害でお米が育たなかったので、弥生時代の熱帯ジャポニカ米から温帯ジャポニカ米に切り替わったという説も最近注目されています。

関東にも王権があった?

 私が今回「はにわ」展に行ったのは、実際に古墳を訪れてみたいので、その予行演習みたいなものです。一番行きたい所は、継体天皇の墳墓と言われる大阪府高槻市の今城塚古墳ですが、私は関東に住んでいるので、群馬県高崎市の観音山古墳や保渡田古墳にまず行ってみようかと思っております。挂甲の武人が群馬県太田市などで発掘されたように、結構、関東には関西に匹敵する豪族というより王が存在していたのではないかと私は睨んでいます。つまり、「大和朝廷」は、現代の教科書では「ヤマト王権」と呼ぶようになったように、全国を統一したわけではなく、関東にもヤマト王権と肩を並べるような権力を持った王権が存在したのではないかと私は思うのです。(ついでながら、古墳のある北九州にも)

 今後、研究が進んで、教科書が書き換えられるようになったら面白いのになあ、と私は思っております。

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