今年は最初の「印象派展」がパリで開催されてちょうど150周年の節目の年に当たります。それを記念する企画展覧会「パリ1874年 印象派を創出すること」がパリのオルセー美術館で今年3月から7月にかけて開催され、目下、巡回展として米ワシントン・ナショナル・ギャラリーで来年1月19日まで開催中だといいます。お時間と金銭的に余裕がある方は是非行かれたらどうでしょうか?
1874年の第1回印象派展
第1回印象派展は1874年4月15日から1カ月間、パリ・カピュシーヌ大通りにあるナダ―ルの写真館で開催されました。ナダ―ルは、詩人ボードレール、画家ドラクロワ、作曲家リスト、作家ジョルジュ・サンド、政治家クレマンソーら多くの19世紀後半の著名人を撮影した写真家です。
第1回印象派展に参加したのはモネを始め、ルノワール、セザンヌ、ドガ、ピサロら30人の新進気鋭の若手作家で165品が展示されたといいます。正式名称は「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」で、伝統的な仏アカデミー主催の「サロン」に落選したか、最初からサロンを相手にしなかったか、もしくは新しい運動を起こしたかった若手グループが旗揚げしたものでした。「印象派」の名称を付けたのは、画家、版画家、劇作家、美術評論家のルイ・ルロワだと言われていましたが、彼が最初ではないという説もあるようです。
モネの「睡蓮」に感服
私が印象派に興味を持ったのは大学生の時でした。大失恋をして4年生の夏休みに傷心旅行として1カ月間、欧州を放浪している間、安くて手頃な観光として美術館・博物館巡りをしていたら、パリのオランジェリー美術館でクロード・モネ(1840~1926年)の「睡蓮」に出合ったのです。感動の渦に巻き込まれました。それまで、大学の卒論のテーマをデカルトにするつもりでしたが、急きょ「印象派」に変更したぐらいです。画家のモネだけでなく、音楽家のクロード・ドビュッシーも取り上げたので、それはそれは大変でした。それ以来、欧米に出張や旅行した際、必ず、地元の美術館を訪れて、印象派の作品に触れてきたものでした。
その中で最も感動した1点だけを挙げよ、と言われれば、やはり、モネの「印象 日の出」でしょう。第1回印象派展に出品され、「印象派」の名称のきっかけになったとも言われます。もう10年以上前ですが、所蔵するパリ16区のマルモッタン美術館で直接面会した時は、足がすくみ動けなくなりました。意外にも「小ぶり」だったので驚きました。「これが本物かあ~」と長年夢にまで見た恋人と再会するような気持ちになり、涙まで出て来ました。勿論、カメラで監視されているでしょうが、警備はそれほど厳重ではなく、手を伸ばして触れるほど近い所で観ることが出来ました。20分間は立ちすくんでいたと思います。
モネ「印象 日の出」80万円だった
現在、印象派研究の一番のオーソリティーになっている大原美術館長の三浦篤氏によると、この「印象 日の出」は最初に売れた価格はわずか800フラン(80万円)だったそうですね。その後、転売されて210フラン(21万円)ですから、19世紀当時はまだ価値を見いだせなかったかもしれません。現在なら、この絵は何十億円どころか何百億円になっているのですから。
皆さん大好きなお金の話になりましたから、その話を続けましょう(笑)。三浦氏によると、モネは港町ル・アーヴルで育ちましたが、10代の頃、似顔絵やカリカチュアなどを描いて1枚最高で20フラン(2万円)で売れたそうです。その売り上げで2000フラン(200万円)を貯めてパリに出てきて、1866年のサロンに出品した「カミーユの肖像画」が800フラン(80万円)で売れたそうです。
モネの年収は3億円超?
印象派展開催の前年の1873年の時点で、モネの年収は3万1800フラン(3180万円)もあったといいますから、大したもんです。その後、印象派の人気が高まり、米国の富裕層からの注文も増え、1890年には年収は3億円を超えていたといいます。この年、「睡蓮」の連作で有名になるジヴェルニーの邸宅を購入しますが、価格は2万2000フランだったといいます。三浦氏は日本円に換算すると2億2000万円だと言っておりましたから、恐らく、22万フランの間違いではないかと思います。ネット上では、三浦氏の発言をそのまま鵜呑みにして、「2万2000フラン(2億2000万円)」と書いているものが散見されましたが、19世紀の貨幣価値は「1フラン=1000円」「1万フラン=1000万円」「10万フラン=1億円」ですから、2億2000万円=22万フランのはずです。
三浦氏は、モネの年収がこれほど増えたのは、「積み藁」や「ルーアン大聖堂」や「睡蓮」など連作に取り組んだからではないか、と分析しておりました。
ジヴェルニーには、「松方コレクション」の実業家松方幸次郎(川崎造船社長、元首相松方正義の子息)が日本から何度も訪れていましたからね。「なるほどなあ」と思いました。
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