アラン・ドロン逝く、88歳

アラン・ドロン(1961年)Wikimedia Commons 雑感
アラン・ドロン(1961年)Wikimedia Commons

 往年の二枚目俳優、アラン・ドロンが8月18日、フランス中部ロワレ県ドゥシーの自宅で亡くなりました。行年88歳。数年前から脳卒中で療養し、リンパ腫も患っていたといいます。最近、「週刊新潮」で、アラン・ドロンの「最後の愛人」と言われた日本人女性がドロンの家族と不和となって自宅から締め出されたという記事を読んだばかりでした。日本人女性は籍に入っておらず、ドロン氏の死去は、遺族がAFP通信に明らかにしたということですが、遺産相続問題が気になります。本日19日は新聞休刊日でしたけど、また週刊誌は書きたてることでしょう。

 ま、アラン・ドロンは大スターですから、最初から最期まで、ボディーガードのマルコヴィッチ氏の不審死事件も含めてスキャンダラスまみれだったと言ってもいいでしょう。彼の全盛期は1960年代から70年代で、私は当時、中学生、高校生でしたから、一番影響を受けた俳優で、映画雑誌「スクリーン」や「ロードショウ」などを買って彼の記事を読んだものでした。彼の告白記事の中で、「自分は私生児だ」と語っていたことは今でも忘れません。私生児は今では放送禁止用語かもしれませんが、婚姻関係のない男女間で生まれた子どものことです。里親に育てられ、「不幸な幼少期だった」と振り返っていました。

 そう大スターというのは、「不幸」が出発点です。その不幸の闇が暗ければ暗いほど、スターとして輝くというのが、ジョン・レノンを始め、何人もの大スターのプロフィルを調べると分かります。

ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(1960年)
ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(1960年)

 とにかく、アラン・ドロンの全盛期が私の世代で最も多感な中高校生期に重なったため、私は彼のほとんどの作品は観ています。特に、モーリス・ロネ、マリー・ラフォレと共演した代表作「太陽がいっぱい」は、私が生涯で観た映画のベスト1に輝いています。哀愁を帯びたニーノ・ロータの音楽も最高でした。最初に小学2年生ぐらいの時、テレビの「映画劇場」か何かで初めて観ましたが、妖しい大人の淫靡な世界、つまり見てはいけないものを見てしまった罪悪感を覚えるような映画でした(笑)。その後、中学生の時、高校生の時、そして大学生になっても、名画座で何度もリヴァイバル上映されるこの作品を観ています。映画館で観たのは50回ぐらいだと思います。これほど繰り返して同じ映画を観たのはこの作品の他にありません。

 彼の作品はほとんど観た、と書きましたが、特に印象的な作品は、モニカ・ヴィッティと共演した「太陽はひとりぼっち」(1962年)、ジャン・ギャバンと共演した「地下室のメロディー」(63年)、ヴィスコンティ監督の「山猫」(63年)、孤独な殺し屋を演じ、妻ナタリー・ドロンと共演した「サムライ」(67年)、ブリジッド・バルドーと共演した「世にも怪奇な物語」(68年)、ジャンポール・ベルモンドと共演した「ボルサリーノ」(70年)、三船敏郎、チャールズ・ブロンソンとの三大スターとの共演「レッド・サン」(71年)です。ということは、80年代以降はそれほど多くは映画館で観ていませんでしたね(笑)。

 いずれにせよ、海外のスターで米ハリウッド映画に対抗して最も日本で人気があった一人がアロン・ドロンでしたので、日本のテレビ・コマーシャルにも何本か出演していました。アパレルメーカー・レナウンのダーバンでは

 D’URBAN, C’est l’elegance de l’homme moderne.(1971年)

 マツダの自家用車カペラでは、

Capella, C’est mon plaisir.(1982年)

と、最後に「決まり文句」を言うところが恰好良かったのですが、何せ、中学生、高校生では何を意味しているのか分かりませんでした。その悔しさが、私が大学でフランス語を専攻するきっかけになったのではないかと今では思っています(笑)。

 ちなみに、前者のダーバンは、「ダーバン、それは現代の男のエレガンスです。」、後者のカペラは「カペラ、それは私の喜びです。」といった意味です。

 なーんてこたあない、ことを言っていただけでした(笑)。

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