8月15日、本日は79回目の終戦記念日です。
それなのに、私は、本日は銀座の欧風レストラン「シャンティイ」で豪華フランス料理のランチ(1300円)を食してしまいました。美味しかった。
79年前、大日本帝国陸、海軍の一兵卒は最後の力を振り絞って、圧倒的な兵力を持つ米軍に立ち向かっておりましたが、如何せん、弾薬も食糧も底を尽き、もう「戦陣訓」の精神論だけでは限界でした。神風も吹きません。
歴史に残る有名なガタルカナルの戦い(1942年8月7日~43年2月7日)がありました。大日本帝国は9万人もの兵力を投入しましたが、米軍によってことごとく補給船が撃沈され、武器弾薬も食糧もなく戦死者は2万1000人。そのうち1万5000人は餓死だったことから、ガタルカナル島は「餓島」と呼ばれました。(「歴史道」34号の43ページ)
そして悪名高いインパール作戦(1944年3月8日〜7月8日)では、自分1人は飛行機で逃げ帰った牟田口廉也第15軍司令官(中将)の無謀無策により、投入した9万人の兵士のうち、5〜6万人が死亡、このうち3万人が餓死したといいます。日本軍が撤退した街道には遺体が累々と横たわり「白骨街道」と呼ばれました(同51ページ)。
牟田口はこの白骨街道の上空を飛行機で飛んで安全地帯に逃れ、戦後も敗戦を部下の責任に押し付けて天寿を全うしました。
総務省、厚生労働省などの資料を分析した歴史学者の藤原彰一橋大名誉教授は、1937年から45年にかけて、戦没した230万人の兵士のうち、全戦没者の60%強に当たる140万人前後が戦病死者だったと試算し、「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論付けました。
追い詰められた兵士たちは、蛇やトカゲや野蔓など食べられるものなら何でも口にしました。大岡昇平の「野火」では人肉喰いの話まで出て来ます。その上、マラリアなどの風土病に苦しめられ、まさに戦わずして戦病死した日本軍兵士が無数もいたわけです。
そう言えば、私が子どもの頃、戦争体験のある両親は、終戦記念日に限って、お芋や雑炊などの粗食にしていたものでした。
それが、年を取ったからと言って、終戦記念日にフレンチだなんて、後から、罰当たりなことをしてしまった、と反省してしまいました。
早田ひな選手の発言
先のパリ五輪のメダリストの帰国報告で、一番印象に残ったのは、卓球女子団体で銀メダルなどを獲得した早田ひな選手が帰国後にやりたいことについて、「鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、卓球ができることが当たり前ではないということを感じたい」などと語ったことでした。
お若いのに感心しました。随分偉いなあと思いました。恐らく、家庭の教育がしっかりしていたからでしょう。
早速、お隣の韓国と中国のメディアは、「『知覧特攻平和会館』は日本の軍国主義の侵略戦争の象徴と認識している。『平和』と掲げられているが、実際には戦争を美化し、日本の過去の歴史を歪曲していると批判されている場所の一つだ」と伝えて、早田選手の発言を批判しているようですが、お門違いでしょう。
早田選手はあくまでも「平和に生きていられることと、卓球ができることが、当たり前のようで当たり前ではない」ことを強調したかっただけなのです。五輪でメダルを獲れば、鼻高々で自慢していれば、それで良いはずなのに、彼女は自分が恵まれている境遇にいることを誰よりも自覚し、それに恥じてさえいるような素振りだったのですから。
政治問題にするべきではないでしょう。
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