パリ五輪開催中に考えたこと

2024年パリ五輪(Wikimedia Commons) 雑感
2024年パリ五輪(Wikimedia Commons)

 パリ五輪開催、真っ最中です。

 私自身は、決勝が行われる日本の時間帯は深夜や明け方が多いので、生中継はほとんど見ていませんが、ニュースやダイジェスト版でそれなりに見て、感動したり、もらい泣きしたりしております。誰もが、国粋主義者に変貌するものです。自国選手が優勝したり、金メダルを獲ろうものなら、我が事のように大喜びします。マスコミも書き入れ時ですから、新聞は号外を発行したりします。

 しかし、そういう大衆を目くらましにして不都合な真実を隠すのにちょうど良いとほくそ笑んでいるのが、世界各国の為政者たちです。IOC(国際オリンピック委員会)は、五輪を「平和の祭典」だと主張しておりますが、いまだにウクライナで、中東ガザ地区で、戦争は続いています。しかも、パレスチナのイスラム組織ハマスの最高指導者ハニヤ氏がテヘランで殺害され、イランがイスラエルに報復する構えを見せておりますから、再び、中東で全面戦争が起きるのではないかと危惧されているという時期です。

 スポーツを利用して政治の不正や社会の歪みを覆い隠すことを「スポーツウォッシング」というそうですね。加藤哲郎一橋大学名誉教授によるマンスリーネットサイト「ネチズンカレッジ」がその辺りを見事に喝破しています。加藤名誉教授は政治学が専門ですが、ジャーナリストですね。日々のニュースを事細かく追って、ボンクラな新聞記者たちの目を覚ましてくれます。

あれから40年

 五輪の話に戻しますと、これでも私はオリンピックを取材したことがあります。もうちょうど40年も昔ですが、1984年のロサンゼルス五輪です。担当した種目は主に水泳、柔道、レスリングで有力メダリスト候補が目白押しでした。当時のことは長くなってしまうので、ここではほんの少ししか触れませんが、柔道の伝説になったあの男子無差別級決勝の山下泰裕対ラシュワン(エジプト)戦を私は目の前で見ております。同95キロ超級の斉藤仁の金メダルも間近で見ております(勿論、記事を書くため)。

 あれから40年。人が良い人格者でもあった斉藤選手が2015年に54歳で病没し、その息子の立(たつる)選手が今回のパリ五輪柔道100キロ超級に出場するというので大いに期待したのですが、残念ながら5位でメダルに届かず。混合団体決勝ではフランスの国民的英雄リネールに連敗し、優勝ならず(銀メダル)でした。

 1964年の東京五輪柔道無差別級決勝で神永昭夫がオランダのヘーシンクに敗れた悔しさを思い出してしまいました。 (この試合を覚えている人は、もう現在65歳以上の人でしょうね)

 まあ、それだけ柔道が国際化したということです。何しろ、五輪開催国フランスでは柔道が盛んで、家元の日本の競技人口が12万人に対して、その4倍以上の55万人もの柔道人口があるということを今回初めて知りました。層が厚いのです。

 今回柔道は、久しぶりにテレビで見たのですが、随分ルールも変わったなあ、と思いました。会場に旗を持った2人の副審がいなくなり、主審1人だけです。競技場も広くなりました。「1本」と「技あり」だけがポイントになり、以前の「有効」「効果」はなくなりました。こうなると余計にスピーディーになり、「柔道」というより、柔術スポーツ、もしくは古代ローマ帝国の格闘競技みたいに見えました。はっきり言ってサーカスのような見世物です。それが、国際柔道連盟とIOCの目論見なんでしょう。いかに分かりやすく、面白く見せるかでルールを変更してきたのです。柔道着の片方の選手の色を青にしたのもそうです。「柔道」(講道館)の創始者嘉納治五郎が今の状況を知ったらどんなに嘆くことか。

 私は古い人間ですから、競技種目が増えたことでついていけません。スケボーやブレイキン競技も、若い人から怒られるでしょうが、「えっ?オリンピック競技なの?」と思ってしまいました。

 そんなことを考えてみれば、神聖な?オリンピックを利用して大儲けしているのは、興行主であるIOC貴族たちです。私が取材したちょうど40年前の1984年ロサンゼルス五輪から「商業化」が始まりました。1976年のモントリオール五輪で9億9000万カナダドル(約807億円)という巨額な赤字を計上したことが契機となり、五輪は一気に商業化路線に舵を切られたのです。先日、ラジオを聴いていたら、若い有名な経済学者が、五輪が商業化路線に転向したのは1992年の「バルセロナ五輪から」と発言していましたが、それは大間違いです。著名な経済学者の発言だったので、何だか、こちらが恥ずかしくなってしまいました。

 いずれにせよ、オリンピックという莫大なテレビ放送権が入る「利権ビジネス」は、人々に感動と興奮を与え、今後もかっぱえびせんのようにやめられない、とまらないことでしょう。

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