【創作】三軒茶屋のサロン

東京・三軒茶屋 雑感
東京・三軒茶屋

 7月27日(土)、東京・三軒茶屋の山本氏邸で開かれた暑気払いに参加してきました。三軒茶屋の山本氏邸を訪れるのは2年ぶりか、3年ぶりか、4年ぶりかぐらいです。はっきり覚えていないのは、前回のことを忘れたいからでした(苦笑)。

 その前回は、名前は忘れましたが、40度以上の焼酎を、意外にも口当たりが良いのでガバガバ呑んでいたら前後不覚になり、歩けないほど泥酔してしまったのです。そのまま帰ったら(後で聞いたら酔い醒ましに途中で駅近の喫茶店に入ったらしい)、何の電車に乗ってしまったのか、JR宇都宮線だったら栃木県、JR高崎線だったら群馬県の名も知らない駅で気が付いて慌てて電車から降りました。そこで、東京方面までの最終電車を待つこと数十分。最寄りの駅に着いたときは、夜中の1時は軽く過ぎていて、バスもタクシーもなく、1時間近く掛けて自宅まで匍匐前進です。匍匐前進というのは大袈裟ですが、何度も何度も転び、民家の塀に頭を打ちつけました。翌朝目が覚めたら、両足の指は血豆だらけで紫色に変色し、両膝には擦り傷、左額には、「与話情浮名横櫛」の「切られ与三郎」のような傷がパッカリ空いて、瘡蓋も出来ておりました。

 この傷はいまだに「傷跡」として残っていますから、その衝撃がいかに凄かったか証明してくれております。あれ以来、外では深酒しないことを心に誓い、今でもそれが続いているわけです。自宅では別に羽目を外して呑んでもいいのですが、年を取ると酒量が減っていくもんですね。

ここは19世紀のパリ16区

 扨て、27日(土)の暑気払いは、19世紀フランスのサロンみたいでした。今、たまたまジョルジュ・サンドの書簡集を読んでいるせいか、余計にそう感じます。サロンとは裕福なブルジョアジーの夫人らがお気に入りの詩人、作家、画家、音楽家、ジャーナリスト、愛人らを自宅に招いて、芸術論やら政治論議やらに花を咲かせるフランス特有の社交場です。英国やドイツにもあったかもしれませんが、寡聞にして知らずです。モノの本によると、フランスでは既に17世紀のルイ13世の時代に始まり、18世紀には高級娼婦や王の愛妾が主宰するサロンもあったようですね。ドビュッシーも参加した20世紀初頭まで続きました。

 ということで、三軒茶屋の山本氏邸での暑気払いをサロン風に脚色して書いてみると-。

 私ことジュリアン・ソレルが、「フランスの世田谷区」と呼ばれるパリ16区にあるヤマモト伯爵主宰のサロンに到着したときは、ヤマモト伯爵の片腕として、出版する本の企画や印刷を手掛けるラファイエット夫人と、かつてジャーディン・マセソン社に勤務して衛星放送の仕事をしていたラトゥール子爵が到着しておりました。ラファイエット夫人は大変目端が利く方で、恐らく前日から準備されていたと思われるお手製のお稲荷さんやカッパ巻き、串焼き、キュウリや茄子の和え物など何点もテーブルの上に用意されておりました。私は、近くの西友ストアーで冷たいビールと乾き物とカッパえびせんを買い込んだだけでしたので申し訳ないほどでした。

 この後、フォンテーヌブロー男爵がモルドバのワインを両手に大声で到着すると社交場は一変しました。先頃あったパリ市長選挙の話となり、急進的な王党派のフォンテーヌブロー男爵は、結果的に当選したプチエタン夫人を盛んに褒めちぎって、「エジンバラ大学首席卒業がフェイクだって構わないじゃないか。それよりロートゥス夫人に投票する人間がいるなんて信じられない。ジロンド党は大した政党じゃないから、そんな党が押す人間に投票する奴など気が知れたもんじゃない。マルセイユ市長だったピエールセルクルなる大穴が結果的に2位の投票を獲得したのは当然だあ~」と捲し立てました。この意見にはラトゥール子爵も同調しました。ソワソンユイッタールは結束が固いのです。

 やり玉に挙がったのは、後から来たジャコバン派のヴァレリー夫人です。フォンテーヌブロー男爵の意見に不服そうな表情見せたせいか、彼女はフォンテーヌブロー男爵から「君は左翼かあ~。王党派がどうなってもいいと思っているのかあ~。君がこのサロンに来られて、この16区に住んでいられるのも、王党派のお蔭じゃないかあ~。お腹が減ったらケーキを食べろ」と言いくるめられておりました。

この後、登場されたダッソー伯爵夫人は、大穴のピエールセルクルの選挙演説会を聞きに行ったらしいのですが、「カフェチェーンのドゥトール男爵が応援演説していたので、彼がピエールセルクルのパトロンだということが分かりましたわ」と誰も知らないことを明かしておりました。

 そう言えば、私以外の皆さんは全員、お住まいは16区でした。幾ら酩酊しても、額に傷を作ることなく帰宅できます。

 ジャーナリストとして参加したバルザック男爵は、最近、最先端の人工知能(AI)なるものを取材している話を披露しておりましたが、19世紀の人間としては、彼が何を言っているのか、さっぱり理解できませんでした。そこで、私は傍らにあったヤマモト伯爵のピアノで、ショパンの「幻想即興曲」を弾いて、皆をアッと言わせ、早々に立ち去りました。実はヤマモト伯爵の隣りの部屋では、ジョルジュ・サンドが主宰するサロンが開かれており、ちょうど、ポーランドから亡命して来たショパンが「幻想即興曲」を弾いていたので、私は弾いている真似をしただけでした。

 それでも、会議は踊る、サロンは踊る…。

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