老川慶喜著「堤康次郎 西武グループと20世紀日本の開発事業」(中公新書、2024年3月25日初版)をやっと読み終わりました。
本当に「やっと」です。何でかな?
まるで企業の決算書
もしかして、当初、期待していた内容ではなかったからかもしれません。西武コンツェルンという大企業をたった一人で築いた男の苦労と奮闘と派手な女性関係の評伝を期待していたせいだと思います。前半は、4歳で実父に死別し、同時に若い母親と生き別れ、農家の祖父母に育てられ、学業成績優秀ながら旧制中学への進学を諦めて祖父母の農業を手伝い、祖父母死去後は田畑を売って上京して、20歳で早稲田大学に進学し、大隈重信や永井柳太郎らからの薫陶を受けて、株式投資で儲けたお金で学生にして起業。軽井沢や箱根などの別荘から文化都市、学園都市住宅の開発、鉄道、遊園地、ホテル、スケート、ゴルフ場などの娯楽施設建設など幅広い事業を手掛けた稀代の実業家として描かれます。その半面、手段を選ばぬ強引な経営で「箱根山戦争」など、ライバルの東急の五島慶太らとの闘争などにも触れていますが、後半は、数字のオンパレードで、企業の決算書か、貸借対照表か何かを読んでいる感じでした。評伝というより、まるで経営書みたいでした。
西武線は糞尿列車だった
また、著者は西武鉄道の歴史にやけに詳しいので、著者の略歴を見てみたら、「日本鉄道史」のシリーズ(「幕末・明治篇」、「大正・昭和戦前篇」、「昭和戦後・平成篇」)を出版されている鉄道オタク?の立大名誉教授でした。。。
この本を最初にこの渓流斎ブログで取り上げた際、「私は、西武池袋線の東久留米で子どもの頃から、長年過ごし、買い物も西友ストアーや西武デパートだったので、西武グループには御縁があった」などと書きましたが、子どもの頃、西武線は、昔は「肥だめ電車」と言われていた、という話を聞いたことがありました。
そしたら、確かに、この本では、堤康次郎が買収して西武グループの傘下に入れた武蔵野鉄道(西武池袋線)と旧西武鉄道(西武新宿線)は、大正から戦後の昭和30年代初めまで、東京市民(都民)の糞尿を埼玉県の入間郡などに運ぶ「糞尿列車」だったことが、極めて精細精密に書かれています。糞尿は勿論、畑の肥料として使うためです。私が子どもの頃に食べた野菜は、トマトも茄子もキュウリも、とにかく目から涙が出てくるほど味が強烈でしたが、こうした肥料の土壌で育った野菜だったからなのでしょう。当然ながら、昭和30年代、40年代の野菜の方が今のような化学肥料による温室育ちの野菜より味がしっかりして栄養価も高いような気がします。
学園の名前は残った
最後に、この本で初めて知って「へ~」と思ったことを以下に列挙しておきます。
・今の西武池袋線の大泉学園駅は、堤康次郎が東大泉駅として1924年11月1日に建設開業して武蔵野鉄道に寄付したもので、当初、1923年の関東大震災で罹災した東京商科大学(商大)を誘致して、大泉学園都市を建設する予定だった。(144ページ)
・結局、商大は、中央線の国分寺と立川の中間にある谷保村に誘致されることになり、国分寺と立川の頭を取って「国立(くにたち)」駅が作られ(諸説あり)、商大は一橋大学となり、同時に「国立学園都市」が作られた。
・大泉学園は商大の誘致が叶わなかったが、学園の名前は残った。同様に、小平学園都市は、関東大震災で罹災した神田駿河台の明治大学を誘致する予定で建設されたが、1924年9月30日の明大商議委員会で、小平への移転が否決された。だが、小平学園の名称は残った。
・堤康次郎の箱根土地会社は、国立に移転した旧商大の東京市神田区(現千代田区)の敷地を手に入れ、分譲地として売り出した他、敷地の約6割に当たる2000坪の土地に初代中村吉右衛門一座の劇場「都座」(和風の鉄筋コンクリート4階建て、収容人数2000人の大歌舞伎場)を建設する計画だったが、沙汰止みとなってしまった。(130ページ)
老川慶喜著「堤康次郎」(中公新書)
本当に「へ~」ですね。特に、中村吉右衛門一座の劇場「都座」の話は、演劇評論家の小玉先生もご存知なかったのではないでしょうか? あ、小玉先生は、二代目吉右衛門の本を結構出版されているので、やはり、ご存知だったかもしれませんね。お元気そうで何よりです。
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