昨晩は、インテリジェンス研究所特別研究員の名倉有一さんが、ご自宅がある静岡県から高校の同窓会に出席するために久しぶりに上京するので、都内のどこかでお会いしましょう、ということで、私の会社がある銀座のビルの13階にある「ラウンジ ヒビヤ」で一献傾けました。
名倉さんからメールでご連絡があったのは、2カ月以上前の5月です。随分、せっかちな人です(笑)。場所と時間はどうしますか、といった話から始まり、結局、直前になって銀座の夜景が見える特等席で、銀座にしては値段もさほど高くない「ヒビヤ」に落ち着きました。
名門浜松北高校
名倉さんの出身高校は浜松北高校です。何で同窓会を地元浜松市ではなく東京で開催されるのか不思議ですが、それだけ東京に出て成功されている方が多いという証拠です。浜松北高は旧制浜松一中で、静岡県内で1、2位を争う名門校ですからね。最近は、大学の医学部に進学して医者になる人が多いそうです。
東大総長を務め、文部大臣なども歴任し、文化勲章まで受章された有馬朗人氏も浜松一中出身で、他にどんな有名人を輩出しているのか調べてみたら、毎日新聞記者から作家になった井上靖、私も面識のある「ハシゲン」と呼ばれた元NHK会長の橋本元一、ジャズピアニストの上原ひろみ、「リング」「らせん」などで知られる小説家の鈴木光司(敬称略)ら多士済々でした。
また、浜松市周辺には、その地を発祥、創業地とする本田技研工業、スズキ(自動車、二輪車)、ヤマハ楽器、ヤマハ発動機など世界的企業が目白押しです。だから、浜松は静岡県内でも、よく言えば「風雲児」、悪く言えば「異端児」扱いにされるそうです。そうそう、静岡県といえば、浜松市が中心の西の遠江、静岡市が中心の駿府の二つかと思っておりましたが、もう一つ、沼津市を中心にした東の三つがあることを名倉氏から教えてもらいました。戦国時代で言えば、沼津の東は、後北条氏の領地で、今では伊豆半島がありますから観光業が盛んです。真ん中の静岡の駿府は今川氏で、現在も行政の中心地。浜松の遠江は、徳川氏領の性格を濃厚に残し、多くの起業家を生んだ地と言うことが出来るかもしれません。
名倉さんは、銀行員でしたが、市井の歴史研究者でもあります。池田徳眞著「日の丸アワー 対米謀略放送物語」(中公新書、1979年7月25日初版)を読んで感激し、著者の池田氏(1904~93年、旧鳥取藩第17代当主)に直接お会いして話を聞いたり、日の丸アワーの責任者だった恒石重嗣元陸軍中佐(1909~96年、陸士は瀬島龍三と同じ44期)に会いに行ったりして、会見記録などをまとめたものを自費出版されたりしています。ネットでも読めますが、一部は、英国のオックスフォード大学図書館にも収録されたといいます。まあ、凄い方です。名倉氏がお会いした著者の池田氏も、恒石氏も亡くなる直前の1990年代でしたから、「運が良かったのか、差し支えある言い方かもしれませんが、ギリギリ間に合いました。それにしても、学者でも記者でもない見知らぬ私なんかによく会ってもらえたものです」と振り返っておりました。名倉さんが、インタビューして録音し、書き残さなければ、永遠に歴史の闇に中に消えた事柄もあります。やはり、凄い方です。
英国人捕虜の遺族が来日
最近の話では、「日の丸アワー」にも出て来た英国人の捕虜チャールズ・ウィリアムズさんの遺族で娘さんであるキャロラインさんが昨年、来日した際に、善通寺捕虜収容所など父親が日本の捕虜時代に辿った道を案内したり、通訳したりする役目を名倉さんは果たしました。ウィリアムズさんは、「対米謀略放送に協力しろ」という恒石少佐の命令を拒否したため、長野県天龍村にあった満島収容所に送られ、平岡ダムの建設作業の強制労働をさせられたりしました。名倉さんは、ウィリアムズさんがご存命だった1990年代に英国までわざわざ会いに行ってインタビューし、その後、ご家族との交流を続けていました。
キャロラインさんが、昨年来日した際の新聞記事やラジオ放送はリンクを貼っておきます。
朝日新聞2023年9月23日「『ノー』と言って消えた英国人捕虜 形見の半纏手に娘が足跡たどる」
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