老川慶喜著「堤康次郎 西武グループと20世紀日本の開発事業」(中公新書、2024年3月25日初版)を読み始めています。
軽井沢や箱根などの別荘地の開発者、目白文化村や国立(くにたち)学園都市(東京商科大学、現一橋大学)などの住宅開発、それに西武鉄道や豊島園などのレジャー施設の開発者として賛美される一方、「商魂たくましいケチン坊」、強引な土地買収などから「ピストル堤」の異名を持つなど、これほど毀誉褒貶の多い人は日本の歴史上それほど見当たりません。
著者の老川氏は、経済学博士号を持つ立教大学名誉教授ということもあって、堤康次郎(1889~1964年)の実業家としての業績を淡々と記述している感じです。老川氏は、この本の「はじめに」の中で「本書では康次郎の政治家としての側面や家族関係に立ち入った言及をしていない」と書いておりますから、堤康次郎の巷間有名な派手な女性関係や、非嫡子を含めると子どもの数は100人を超えるのではないかといった俗説や衆院議長としての業績などにはほとんど触れていません。堤康次郎が創業した箱根土地株式会社(のちのコクド、現プリンスホテル)などの「決算書」や「営業報告書」の事細かい数字も多々出て来ますので、まさに事実関係を序列した中立的な記述になっています。
私が堤康次郎について長年興味を持っていたのは、私自身、幼稚園前から小中高大学、そして社会人になるまで西武線沿線に住んでいたからでした。買い物も西友ストアーや西武百貨店、遊びに行くのは豊島園でしたから西武グループはかなり身近な存在でした。ただし、堤康次郎については、あまりにもネガティブなイメージが強かったので、彼について深く「研究」しようとさえ思わなかったのでした(苦笑)。
ですが、この本を読み始めると、ネガティブなイメージが薄まり、かなり新鮮な感じがしました。歴史上の人物として、彼も「時代の申し子」だったということが分かったからです。
まず、彼は明治22年、滋賀県で農業兼麻仲買商の家に生まれたことから、「日本資本主義の父」と呼ばれた明治の渋沢栄一や三井物産を創った益田孝を第1世代としたら、それに続く第2世代に当たります。堤康次郎は早熟な商才に恵まれ、早くも大正初期の20代から本格的な事業活動を始めました。私は、堤が近江商人の子息として最初から恵まれたスタートを切っていたものと思っておりましたが、実際、父親は彼が4歳の時に腸チフスで亡くなり、母親はまだ若かったので実家に戻り再婚。結局、祖父母に育てられた苦労人でした。
そんな平民(農家)出身の彼が何故、ビジネスで成功したのかといいますと、やはり、運に恵まれたということになります。その運とは、有力者との巡り合いです。祖父母の死後、地元の田畑を売却して上京し、進学した早稲田大学で大隈重信や永井柳太郎らから薫陶を受け、雄弁会を通して、桂太郎や後藤新平らの知遇を得ます。また、柔道も始めたので、嘉納治五郎の広大な人脈にも触れ、全て自分の実業に生かすことが出来たのです。巡り合った多くは、鈴木商店の藤田謙一(日本商業会議所初代会頭)を始め、明治の実業界の第1世代です。
早大時代は、商品や株式取引にも熱中し、1910年、後藤毛織の株価の値上がりで6万円もの利益を得て、翌年、そのお金で日本橋蛎殻町の三等郵便局長になりました。その莫大な利益を得たのは21歳の時ですから、かなりの商才があったと言えます。
最大の勝機は土地
著者の老川氏も書いておりますが、堤康次郎はやがて、商品や株取引から身を引いて、最も目を付けたのは、「土地」だったといいます。悪い言い方をすれば、株なんかより、土地転がしの方が遙かに儲かると踏んだのでしょう。その目論見は見事に結実します。その成果は、最初に書いた通り、軽井沢や箱根などの別荘地、目白文化村や国立学園都市、豊島園などのレジャー施設の開発です。ですから、堤康次郎が何者だったかと言えば、今の六本木ヒルズや虎ノ門ヒルズを開発した森ビルと同じようなデヴェロッパーだと言えます。
そのデヴェロッパーの「資本」となる土地をどんな手段で手に入れたかについては、この本では具体的には書かれてはいませんが、かなり強引だったようです。しかし、その一方で、彼も「時代の申し子」と先に書いた通り、彼が生きた時代背景からかなり恩恵を受けているのです。例えば、大正デモクラシーの影響で、皇族や華族ら広大な土地を持つ富裕層が、東京市の住宅難に同情して、その土地の一部を手離すような風潮が生まれたのです。また、第1次世界大戦後の好景気などで、新たな中産階級が生まれ、住宅や別荘を持つような身分が誕生したことも追い風になりました。さらには、関東大震災により、特に東京は再開発を余儀なくされ、失礼ながら土地転がし屋にとっては、ピンチは最大のチャンスになったわけです。
堤康次郎は、住宅や別荘だけでなく、商業施設まで開発していました。私もかつて彷徨いたことがある東京の渋谷・道玄坂の百軒店(ひゃっけんだな)も堤康次郎の開発だったということもこの本で初めて知りました。関東大震災直後の1924年ですから、今からちょうど100年前のことです。ここは、もともと旧豊後国岡藩主中川久任伯爵の邸宅だった所で、堤康次郎が3448坪を買収したといいます。
私は歴史好きですから、岡藩と言えば、すぐ岡城が思い浮かびます。滝廉太郎が作曲した「荒城の月」は、彼が幼少期を過ごしたこの岡城をイメージしたと言われますから、何となく身近に感じます。つまり、「百軒店って、滝廉太郎と関係があったのかあ」という連想ゲームのような感慨です。(つづく)
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