梨園所縁の新富稲荷神社

新富稲荷神社 歴史
新富稲荷神社

 私には掃苔趣味と洋の東西を問わず城巡りと神社仏閣参拝があることは皆さまご案内の通りです。会社の昼休みのランチの後に必ずお参りする神社が何社かありますが、本日はその1社を御紹介致しましょう。

 新富稲荷神社です。

 会社は東銀座にありますが、銀座は最近、外国人観光客で犇めいていて、どうもそちらに足が向かず、専ら、ランチは新富町にまで足を伸ばしています。そこに鎮座するのがこの小さな小さな新富稲荷神社です。この神社の由来については、東京都中央区のサイトをそのまま引用させて頂きます。

新富座座元の長男が、7代目坂東三津五郎

 京橋税務署(新富座跡)の近くに鎮座する小さな神社。明治5年、12代目守田勘彌が守田座を新吉原遊郭の跡地に移転し、後に新富座に。その際、中万字稲荷と呼ばれていた神社を再建したのがこちらと言われます。境内には手水舎の扁額に「奉納坂東三津五郎」、手水鉢の刻印に「七代坂東三津五郎」とあります。新富座に出演した役者達もきっとお参りしたことでしょう。お社に寄り添う銀杏の古木が歴史を思わせます。

東京都中央区HPより

 はい、この通りです。現在、京橋税務署(東京都中央区新富2丁目6番1号)が建っている場所は、かつて歌舞伎興行の「新富座」がありました。明治5年(1872年)に守田勘弥の守田座がこの地に移転して建設され、大正12年(1923年)の関東大震災で被災してそのまま再建されずに廃座となりました。この新富座の近くに創建されたのがこの新富稲荷神社です。役者さんを始め、多くの梨園(歌舞伎)関係者が参拝していた演劇界所縁の神社だったわけです。

 ですから、境内にある手水舎の扁額に「奉納坂東三津五郎」、手水鉢の刻印に「七代坂東三津五郎」とあります。

新富稲荷神社 奉納七世坂東三津五郎
新富稲荷神社 奉納七世坂東三津五郎

 最初、私は「ここは大和屋さん(板東三津五郎の屋号)ご贔屓の神社なのかな」ということぐらいしか感じていなかったのですが、よくよく調べたところ、東京都中央区のサイトにある通り、この七世板東三津五郎(1882~1961年)とは、新富座の座元十二世守田勘弥の長男だったんですね。本名は守田壽作です。

 個人的ながら、演劇記者時代、私自身がよく存じ上げていた板東三津五郎とは十代目(1956~2015年)のことでした。惜しいことに59歳の若さで病気で亡くなってしまいました。女性スキャンダルがあったので、最初は少し色眼鏡で見てしまいましたが、大変腰が低く誠実な方で、ホテルのパーティーなどで人が大勢ひしめいている中でも、わざわざ私ごとき人間でも遠くから見届けて、側まで来て「よくお出でくださいました」などとご挨拶してくださる人でもありました。

 三津五郎さんの盟友十八世中村勘三郎(1955~2012年)は57歳の若さで亡くなり、十二世市川團十郎(1946~2013年)も66歳で亡くなっています。どうもこの世代は不幸が続いた感じでした。そのせいか、余計に思い出深い役者さんたちでした。

新富稲荷神社 本殿
新富稲荷神社 本殿

 江戸時代、幕府公認の芝居小屋として「江戸三座」がありました(1714年の江島生島事件で山村座が廃絶した以降)。それは、中村座、守田座、市村座のことですが、その支配人である座元はそれぞれ、中村勘三郎、守田勘弥、市村羽左衛門です。十八世中村勘三郎と十世板東三津五郎は同学年の親友でしたが、二人とも座元の流れを汲む名門家出身だったわけです。

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