夏目漱石と永井荷風のお墓参り

夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園) 歴史
夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園)

 6月1日(土)、東京・目白の学習院大学で開催された第6回尾崎=ゾルゲ研究会の後、雑司ヶ谷鬼子母神堂を訪れ、その足を延ばして雑司ヶ谷霊園に参拝に行って参りました。私は掃苔趣味(後述)がありますから、是非とも雑司ヶ谷霊園に眠る私の尊敬する文豪夏目漱石、永井荷風両先生に御挨拶したかったからでした。都電荒川線の鬼子母神前から雑司ヶ谷駅まで一駅ですから優に歩ける距離です。

雑司ケ谷霊園とは

 まずは、雑司ケ谷霊園とはどういう所なのか、霊園のある東京都豊島区のホームページから少し補綴して引用させて頂きます。

3代将軍徳川家光の寛永15年(1638年)に薬草栽培の御薬園となり、8代将軍吉宗の享保4年(1719年)には御鷹部屋に変わり、将軍の鷹狩りに使う鷹の飼育場所として使われていました。御鷹部屋時代の松の大樹が今も霊園内に残っています。明治7年(1874年)9月1日に東京府によって共同埋葬墓地となりました。

東京都豊島区のHPより

 なるほど、鷹の飼育場所だったとは、全く知りませんでしたね。

夏目漱石の墓

 私は、学生時代に一度、夏目漱石先生のお墓参りしたことがありましたから、恐らく雑司ケ谷霊園を訪れたのはそれ以来で、実に半世紀ぶりぐらいです。看板の地図で、最初に漱石先生のお墓を探したのですが、直ぐに見つかりました。土曜日の夕方でしたから、もっと人が多く参拝しているのかと思っていましたら、誰もおらず、拍子抜けするほど無警戒、無防備でした。まあ、お墓で悪戯しようとする悪人はそう滅多にいないでしょうからね。

 学生時代に訪れたとき、その墓石のあまりにもの大きさに圧倒された印象が残っていましたが、今回はそれほど驚くほどでもありませんでした。墓石には、「夏目」と漱石先生の戒名である「文獻院古道漱石居士」と奥様鏡子さんの戒名「圓明院清操浄鏡大姉」が刻まれています。墓碑を揮毫したのは漱石の親友管虎雄(1864~1943年)です。管家は代々、久留米有馬藩の御典医だったということで、私の先祖も久留米藩士だったので、個人的に近しく感じます。書家でもあった管虎雄は、第一高等学校時代の教え子だった芥川龍之介の「羅生門」や谷崎潤一郎の「文章読本」の表紙字も揮毫しています。

 この大きな墓石の横には小さな「夏目家の墓」があり、裏側を一瞥すると、漱石の長男の純一さんらの名前が刻まれていました。

 先述した掃苔趣味とは、文字通り、苔をきれいに掃き清めることで、著名人のお墓参りをする人のことです。今日では「墓マイラー」とか呼ばれたりしています。実際、墓苑は、プライベートな空間ですから、他人がお供え物をしたり、掃除をしたりするのも本来はタブーですから、私も何もせず、単に手を合わせてお参りさせて頂きました。何をお祈りしたのかは内緒です。

 普段はこれでお終いですが、お墓の背面に回って撮影してきました。

夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園)
夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園)

 年号を洋数字にして西暦を補足しますと、左から「大正5年(1916年)12月9日没 俗名夏目金之助」「昭和38年(1963年)4月18日没 俗名夏目キヨ」「明治44年(1911年)11月29日没 俗名夏目ひな子 夏目金之助五女」と書かれています。漱石先生は行年49歳、妻キヨさんは行年85歳、五女ひな子さんは満1歳で夭折しています。漱石先生が49歳の若さで亡くなったことは覚えておりましたが、奥さんのキヨさんが1963年まで生きていらしたとは…。つい最近の人だったんですね。そう言えば、私が子どもの頃は、明治生まれのお爺ちゃん、お婆ちゃんが結構健在でした。

永井荷風の墓

 続いて向かったのが永井荷風先生です。こちらも直ぐに見つかりました。雑司ケ谷霊園はそれほど広くはありません。尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲが眠る多磨霊園には結構足を運びましたが、こちらは迷子になってしまうほど広大です。そのせいで、余計に雑司ケ谷霊園が狭く感じるのかもしれません。

永井荷風の墓(雑司ヶ谷霊園)
永井荷風の墓(雑司ヶ谷霊園)

 多分、私の曖昧な記憶では、荷風先生の参拝は初めてです。若い頃はどうも花柳小説がそれほど好きになれず、「あめりか物語」「ふらんす物語」を読んでも特に感銘を受けませんでしたが、中年以降になって読んだ「断腸亭日乗」が歴史的史料として重要文化財と言えるほど価値があるものだと分かり、荷風先生に対して一気に尊崇の念が湧き起こり、初期の小説から読み直しました。私が高校時代、荷風の弟子だったか、弟子志願者だったか忘れましたが、国学院大学出身の国語の教師がいまして、よく、授業の合間に、「奇人・変人」の荷風先生の話をしてくれたことがありました。当時のその国語教師は70歳ぐらいに見えました。

 これまた、うろ覚えですが、荷風は1959年4月30日、千葉県市川市の独り暮らしの自宅で、通いのお手伝いさんからうつぶせになって倒れているところを発見され、死亡が確認されました。その後の捜査で、部屋の畳の下から何千万円もの紙幣が敷き詰められ、隠されれていたのが見つかったという話もありました。これは、その先生から聞いた話だということで、裏は取っておりませんが(笑)。 

 荷風先生のお墓も背面撮影させて頂きました。

永井荷風の墓(雑司ヶ谷霊園)
永井荷風の墓(雑司ヶ谷霊園)

 荷風先生の本名「永井壮吉 昭和34年4月30日卒 享年79」と書かれていますね。御長命で、80歳は越えていたと思っておりましたが、70代だったとは…。荷風先生は、官立高等商業学校附属外国語学校清語科(現東京外国語大学中国語科)出身ですから、私の大学の先輩に当たる人なのでまた近しく感じてしまいました。

 とにかく、この日は、行き当たりばったりで事前に下調べもせずに雑司ケ谷霊園を参拝しましたが、後で調べてみたら、雑司ケ谷霊園には、荷風先生も私も尊敬する明治の操觚者で朝野新聞社長も務めた成島柳北、漱石の親友で南満州鉄道総裁などを歴任した中村是公、土佐のジョン万次郎、画家の竹久夢二、作家の小泉八雲、幕末の外交官として名高い幕臣の岩瀬忠震(ただのり)らの墓所もあったんですね。次ぎに行く機会がありましたら、是非お参りしたいと思います。

コメント

  1. 牧子嘉丸(まきこ・よしまる) より:

    拝啓。はじめまして。
    先日、私も尾崎・ゾルゲ研究会に参加しており、あらためて高田さんの報告を読んで要点をうまくまとめられていると思いました。
    忘れていたことやよく聞き取れなかったところがあったので大変役立ちました。
    加藤先生のネチズンで高田さんの記事を見つけたのですが、いろいろとご活躍ですね。
    参考になる興味深い内容が多いので、これからもときどき拝見させていただきます。ありがとうございました。

    • 高田勤之祐 より:

      拝復 牧子嘉丸様
      コメント誠に有難う御座います。
      わー、嬉しいですねえ‼
      実はブログのアクセス数があまりにも少ないので、そろそろ廃業しようかと思っていたところでした。何を書いても反応がなければ、「犬の遠吠え」であり、「蟷螂の斧」ですからね。
      でも、こうしてコメントを頂きますと、しっかり読んでくださる方がいらっしゃることが分かり、大袈裟ながら天にも昇る気持ちです。
      これからもどうぞ宜しく御贔屓の程、宜しくお願い申し上げます。

      渓流斎高田謹之祐

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