織田信長の次男信雄に再評価

織田信雄(総見寺蔵)wikimedia commons 歴史
織田信雄(総見寺蔵)wikimedia commons

 最近気になっている歴史上の人物は、織田信長の次男信雄です。信雄を「のぶお」と呼ぶ人もいるようですが、「のぶかつ」でほぼ定着しています。一時期、「信勝」と称したことをあったようです。でも、信雄を「のぶかつ」と読める人はよほどの歴史好きです。

  織田信雄といえば、最初にイメージされるのは、「不覚人」(=不心得者、司馬遼太郎「覇王の家」など)とか、安土城を放火した「ふつうより知恵が劣っていた」人(宣教師ルイス・フロイス「日本史」)といった無能な愚か者のボンボン扱いです。特に、豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍とか戦った「小牧・長久手の戦い」(1584年)では、信雄は家康には内緒で勝手に秀吉と講和条約を結んで戦線離脱したことから、評判が悪いのです。

 ところが、そんな信雄の悪いイメージを覆す書簡が見つかりました。それは昨年4月、山形県鶴岡市の致道博物館が報道陣に公開した小牧・長久手の戦いで織田信雄が離脱した後に徳川家康に宛てた書状です。信雄は、家康に対して秀吉との直接対決を避け、秀吉に臣従するよう、そのためには織田家が和睦の仲介するといった内容です。この書状は、庄内藩士で藩主家の剣術指南役を務めた石川家に伝来したものです。庄内藩は、徳川家康の四天王で、家康の外交交渉を任されていた酒井忠次の嫡男が代々藩主を務めた藩ですから、もともと酒井忠次が家康から預かって所持していたのではないかといわれています。

信雄の子孫だけが生き残った

 この書状のお蔭で、織田信雄は、無能な不心得者でも愚か者でもなく、実に優秀で有能な交渉人という評価が高まったというのです。「信雄が安土城を放火した」というのは、ルイス・フロイスが伝聞で書いているだけで、証拠はありません。それに織田家の中で、唯一、幕末まで(ということは現代まで)生き残ったのは信雄の家系だけだったということは、それだけ大名としての機敏さと力量があった証拠だと実に400年ぶりに再評価されているのです。

 歴史的評価なんて当てにならないもんですねえ(笑)。

 織田信雄は寛永7年(1630年)、当時としては長命の73歳まで生きます。父織田信長は48歳、その嫡男信忠は25歳で本能寺の変で亡くなっています。その一方で、信雄の四男信良は上野(群馬県)小幡藩主となり、その後、子孫は明和事件で転封され、出羽(山形県)天童藩主で幕末を迎えます。五男高長は、大和(奈良県)宇陀松山藩主となり、その後、御家騒動に伴う転封によって丹波(兵庫県)柏原藩主となります。また、五男高長の系統は、信長の弟長益(有楽斎)が所領とした大和柴村藩と大和柳本藩の養子に入り、明治維新まで続きます。

 現在不遇を託っている人でも、400年後にはちゃんと再評価してくれる人がいると思えば、少しは生きていく勇気が湧いてくるかもしれませんね。

【参考文献】

「江戸三百藩全史」(スタンダーズ、2018年1月1日)

「江戸五百藩」(中央公論新社、2020年11月5日)

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